タイトルの南多摩郡町田市というのは、もちろん実在しない、したことのない自治体名である。
それでも、現在の町田市の領域がかつての南多摩郡に属していたという事実は、町田市が神奈川県側に不自然に突き出していることの原因を考える上で、重要だ。
まず、南多摩郡という括りについて説明する。南多摩郡の他に北多摩郡、西多摩郡という2つの多摩郡を合わせて、三多摩と呼ぶ。これは東京都や神奈川県ができるよりずっと昔の、奈良時代にまで遡る「多摩郡」という行政区分があったのを、明治維新後に東西南北4つの区分に分割した名残だ。
すると、三多摩以外にも東多摩郡がある筈だが、これは現在の中野区とか杉並区とか、東京23区の西側の地域のことで、早々と東京都(当時は東京市)に編入されてなくなってしまった。多摩郡の中でも最弱だったから、仕方ないね。
残りの三多摩は、現在の東京都の市部にほぼ対応する。対応する領域を地図で確認してみればわかるが、多摩川や境川といった自然境界に対応して、領域は東西ではなく、北東-南西というように伸びている。考えてみれば、元々多摩郡が出来た時代は厳密な東西南北が知られていたわけではない。その時代の行政区分を現在の北が真上の地図に載せて不自然なのは当たり前だ。
で、この三多摩地域は明治維新の後、神奈川県に編入された。元々東京市自体の扱いが現在でいうところの政令指定都市のような、中核都市の行政区分であったため、東京市でない部分が他の県に入ったわけである。それで三多摩は神奈川県になっていた。
ところが、本当に中核機能の部分を東京市としてしまったため、基本的に上流で降った雨を集めて流す水道の、水源部分の管理ができないという問題が生じた。おりしも水道の衛生管理が流行に影響するコレラが流行していたこともあり、東京市が水源部分を直接管理したいということで、三多摩ごと併合することになった。
よく言われている、「町田市が東京都に編入されたのは水源が欲しかったため」というのは厳密ではなく、正確に言うならば、「水源管理のために多摩郡を取り込もうと思ったら、いにしえの行政区分のしがらみもあって盲腸のように町田市がくっついてきちゃった」というのが正しい。町田市は盲腸と切っても切り離せない関係。
つまり、どうして町田市が不自然に神奈川県側に食い込んだ形をしているかということについての答えは、「厳密な東西が無かった時代のいにしえの行政区分をそのまま東京都にくっつけたから」だ。民俗方位というものがあって、たとえば沖縄では東西南北に対応する方位名が、実際の東西南北から時計回り状にずれており、北が北東のことを指している。多摩郡の場合は特に、自然境界である川の流路が決定的な要因だったかもしれないが、現在の地図に載っけて綺麗な形では境界が作られていない。
ということで、町田市を神奈川県に取り込むためには、いにしえ時代のしがらみを解消することが第一条件として必要なのだが、それについてはもう近代化と戦争と経済発展を経て果たされたと言っていい。町田市としても、東京市に編入されてベッドタウンとして発展の恩恵を受けた他の多摩郡の自治体と異なり、東京の中心部とは絶望的にアクセスが悪いわけで、神奈川県に編入されてアクセスの良い横浜にすり寄った方が、発展の目があるはずだ。
神奈川県に編入されれば、両隣の政令指定都市が町田を取り込もうと黙ってはいないだろうしね。東京都の末席に甘んずることなく、神奈川県でモテモテになった方がいいんじゃない?
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